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「初めて「カラマゾフ兄弟」を読んだ晩のこと」(室生犀星):藤田書店がおすすめする詩
私はふと心をすまして
その晩も椎の実が屋根の上に
時を置いて潑かれる音をきいた
まるで礫を遠くから打つたやうに
侘しく雨戸をも叩くことがあつた
郊外の夜は靄が深く
しめりを帯びた庭の土の上に
かなり重い静かな音を立てて
椎の実は
ぽつりぽつりと落ちてきた
それは誰でも彼の実のおちる音を
かつて聞いたものがお互ひに感じるやうに
まるで人間の微かな足音のやうに
温かい静かなしかも内気な歩みで
あたりに忍んで来るもののやうであつた
私は書物を閉ぢて
雨戸を繰つて庭の靄を眺めた
温かい晩の靄は一つの生きもののやうに
その濡れた地と梢とにかかつてゐた
自分は彼の愛すべき孤独な小さな音響が
実に自然に、寂然として
目の前に落ちるのをきいてゐた
都会のはづれにある町の
しかも奥深い百姓家の離れの一室に
私は父を亡つて
遠く郷里から帰つて坐つてゐた
あたかも自らがその生涯の央に立つて
しかも「苦しんだ芸術」に
あとの生涯をゆだねつくさうと心に決めた
深い晩のことであつた
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