「ためいき」(佐藤春夫):藤田書店がおすすめする詩
一
紀の国の五月なかばは
椎の木のくらき下かげ
うす濁るながれのほとり
野うばらの花のひとむれ
人知れず白くさくなり、
佇みてものおもふ目に
小さなるなみだもろげの
すなほなる花をし視れば 恋びとの
ためいきを聴くここちするかな。
二
柳の芽はやはらかく太息して
丈高くわかき梧桐はうれひたり
杉は暗くして消しがたき憂愁を秘め
椿の葉 日の光にはげしくすすり欷く……
三
ふといづこよりともなく
君が声す。
百合の花の匂ひのごとく
君が声す。
四
なげきつつ黄昏の山をのぼりき。
なげきつつ山に立ちにき。
なげきつつ山をくだりき。
五
蜜柑ばたけに来て見れば
か弱き枝の夏みかん
たのしげに
大いなる実をささへたり。
われもささへん
たへがたき重き愁ひを
わが恋の実を。
六
ふるさとの柑子の山をあゆめども
癒えぬなげきは誰がたまひけむ。
七
遠く離れてまた得難き人を思ふ日にありて
われは心からなるまことの愛を学び得たり
そは求むるところなき愛なり
そは信ふかき少女子の願ふことなき日も
聖母マリアの像の前に指を組む心なり。
八
死なむといふにあらねども
涙ながれてやみがたく
ひとり出て佇みぬ
海の明けがた海の暮れがた
ーーただ青くとほきあたりは
たとふれば古き思ひ出
波よする近きなぎさは
けふの日のわれのこころぞ
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